特定非営利活動法人 標準医療情報センター

 NHSE(英国イングランド地域管轄の国民健康・医療制度)*1が2015年から全国民を対象に提供する国民健康医療サービスの5カ年改革計画がスタートした。我が国の健康医療サービスは皆保険であるが、英国は税金により賄われている。しかし、実態は日本の国民健康保険サービスは高齢化進行に伴い増加する生活保護世帯により税の投入が拡大し、両国制度の運用は大変似通っている。

*1:NHSEはNational Health Service(NHS)Englandの略で、日本の国民健康保険制度と類似の制度であるが、保険ではなく、税金により賄われている。設立は1948年で英国が誇る社会保障制度の主柱である。

このNHSE改革5カ年計画の目玉の一つがTECSである。TECSはNHSEが健康・医療サービスの質向上(治療結果の改善・向上を含む)と24時間・365日ケア・サービスを国民が受けられる機会の劇的改善(コスト面と利便性面を含め)をもたらす技術と期待されており、代表的な具体的成果物として、遠隔健康・医療(telehealth)、遠隔ケア(telecare)、遠隔診療・治療(telemedicine)、遠隔治療指導(telecoaching)、自己管理ケアのアプリ・ソフトウエア(self-care apps)等がある。
 筆者がショックを受けた、今でも鮮明に覚えている事は、2017年3月17日、ロンドン滞在時に2600万人強の開業医(GP)の患者情報の外部流失の可能性が高いとのニュース報道が起点になった全世界的サイバー犯罪の序章である。その後同年5月に世界を揺るがす「MSの欠陥つくサイバー攻撃」との日経新聞見出しで、大規模のサイバー攻撃が世界を襲い、特に英国NHSEの傘下16病院組織のITシステムに多大な被害が発生した。被害を受けた病院では、緊急でない手術を断り、中には救命救急部門で救急車の受け入れが不能となり他病院に回したと報じている。これが英国下院の総選挙に影響を与えるであろうと選挙前世論調査で指摘されていた。
 TECS(科学技術が可能とした保健医療サービス)を中心テーマに資料を整理してきたが、サイバー攻撃、大規模ハッキング犯罪発生により、明らかになったTECSの弱点、負の側面についても日本の保健医療に関わる職業人や研究者を含め多大な教訓や示唆を提供している。
 一方、最近注目を浴びつつあるのは強み部分である。デジタル技術応用の範囲が広がり、患者の身体に危害・損傷を加えたりすることなく、医療過誤を極小化し、常に医療技術の習熟度の維持向上を図る仕組みが完成されつつある。即ち手術や治療の質を向上させ安全性を格段に引き上げ、患者の不安を払拭し、手術や治療を短時間に円滑に計画通りに実施・完了させている。それにより関係する医療従事者全員に精神的な満足度を高める仕組みこそが、シミュレーション教育・訓練であり、デジタル技術の進歩・拡大により可能になって来たと認識されている。

図A

 現在もシミュレーション教育・訓練の普及は拡大し、内容的にも日々進化・充実を続けている。正に広義のTECSが出現している。シミュレーション教育・訓練では再現性が可能で、同僚、指導医、コーチの指摘や意見がリアルタイムで聞け、問題点や改善点を客観的指標で理解出来ると判断され、効率性・効果性の観点から有望な仕組みであるとの評価が固まりつつある(図A参照)。


シミュレーションの補足説明

 広義のTECSと位置付けられる本格的シミュレーション教育・訓練は、1966年に南カリフォルニア大学の二人の博士によりコンピュータ制御の高機能マネキン・シミュレータ全身麻酔導入のための練習用に開発され、麻酔科4人のレジデント(研修医)の気管挿管の実習訓練で使用された。当時の一式のコストは10万ドルで、当時は高価で普及の壁となった。
 1970年代に米国で航空機事故が多発し、1979年にNASAの支援で航空機事故の原因を調査した結果、「乗務員のリーダーシップ、コミュニケーション、意思決定能力欠如、即ち 『To err is human:人は誰でも間違える』CRM(Cockpit Crew Management)*2」という理論が生まれた。これが経営学の基本理論と「Error Management Theory」として教えられている。この理論のもと、1990年代米国において医療過誤事件が多発した際、これを政治問題化したクリントン大統領が公的機関(IOM:米国医学研究所)の設立した米国医療の質委員会に医療過誤に対する抜本的対策を命じた。結果、医療分野でCRMに基づく答申が出され、その提言に基づき、連邦政府の補助金により全米各地にシミュレーション・センターが設立された。IT技術の進歩とコスト低下が相まって急速にシミュレーション技術が発展・確立してきた。現在も更にその進化・発展は続いている。
 英米の言語の互換性の利点を活用し、英国ではより大きなコンセプトに作り上げられている。

*2:①チームワーク、②リーダーシップ③コミュニケーション④意思決定の4要素から構成される。

 シミュレーション教育(デジタル化された医療用マネキン人形)は高価であるため、筆者が20年に亘り定点観測している、ロンドンから列車で1時間程度の距離に位置する地域中核病院、ケント州ダートフォードNHSトラスト急性期一般病院は、北西ケント州大学院研修医(基礎教育)協会から資金援助を受け、2012年、シミュレーション教育施設とデジタル化医療マネキン人形一装置機器一式を導入した。新設された2年課程専門養成校を卒業した20歳前後の女性がシミュレータ技術士として、マネージャと補佐人の計3人で本プログラムに基づきシミュレーション教育コースを運営している。参加する研修医や看護師はシミュレータを体験し、参加の研修医同士又は看護師同士が相互評価・討議する方式である。尚、本教育プログラムは試行錯誤での完成を目指しており、発展途上にあると云える。
 2017年2月に英王立大学医学部の共同医師教育訓練委員会(JRCPTB)は医師免許認可を行うGMC(総合医療協議会)と討議し、同年10月にシミュレーション教育を内科医教育カリキュラムの必須科目に組み入れている。一言で云えば、発展途上にある教育・訓練プログラムは、デジタル技術の進歩と低廉化で、且つ患者の身体損傷リスクを極小化し、治療時間を短縮と治療品質を安定・向上させる長所が見込まれている。本プログラムの有効性と品質水準が今後も継続的に監視・検証される。

 シミュレーション教育(デジタル化された医療用マネキン人形)は有効性とその効果を即時医療現場に反映させるために、地域拠点の中核病院に機器・施設一式を大学院医師基礎教育を担当するDeaneryの発展形態LETB(地域医師教育訓練委員会)が資金援助し、開設し、研修医、看護師、薬剤師の教育訓練で患者の安全性と入院経験の時間的短縮と苦痛軽減を図る為、座学での学習より、体験的教育訓練と相互学習でスキルと自信の獲得を図り地域中核病への医師・看護師の入職を促進する一石三鳥以上の効果を狙っている。
この教育訓練も試行錯誤で充実を図る事が推察される(図B、図Cを参照)。

図B

図C


 更に、医師免許更新プログラムの構成単位として産科専門麻酔科医向けシミュレーション・コースがヨークシャ州の地域急性期一般病院で発表されている。この2日間のコースは2013年11月に試行的に始まり、6つのシナリオを用いて実施された後、英王立大学麻酔医科より継続的本専門医開発プログラム認定を受け、設定された。2014年4月より本格的に運営されている。今後他の診療科においても医師免許更新プログラムに順次組み入れが予定されている。

日本が学ぶべきこと、シミュレーション教育についての取組方について

  1. 研修医教育・訓練の大学院課程は、主たる実施担当は大学病院ではなく、地域中核病院という住民患者に近い医療現場を拠点に、LETB(地域(医学・医療)教育訓練委員会)という医学部の大学院課程担当教授・地域中核NHSトラスト病院等専門家が、シミュレーション施設・機器の整備費用を負担し、シミュレーション教育・訓練施設設置を決定する。運用は受け入れ病院側であるが、その運用方法も試行錯誤に基づいている。
    更に、医師の免許更新をより充実させ、常に医師の医療の技量向上を図る実用的な方法を追及する努力は大変印象的である。
    翻って日本の現状は、各々の大学医学部が自己の費用で設置する為、高額な設備・機器の費用を賄うのは困難である。各大学は大きな全体的構図なしに導入を試行している。各大学の知見トータルの蓄積は無駄が多いと推察される。英国においてシミュレーション教育は地域の医療現場に近い中核病院で重点的に行われており、この点についても、厚労省及び文科省行政のリーダーシップが早急に望まれる。
  2. シミュレーション教育について、原則は試行錯誤で改良・改善を継続し、数字に基づき完成度を高める。試行錯誤とは、NHSEが既に2000年代にトヨタ生産方式にもとづき医療現場版に作り直したLean System(贅肉のないシステム)*3と呼ばれ、NHSEの別組織で本システムの普及に努めている。サービス部門に製造業から生まれたトヨタ生産システムを基に作り直している柔軟性と粘り強さは印象的である。
    尚、この試行錯誤のアプローチは、海図のない改革案を推進する際に、基本にすべきアプローチ方法としてNHSEに定着していることが窺える。

*3:2002年Lean Thinking(無駄のない考え方)について教育を主として担当するNHS ElectがNHSイングランドの一組織として設立され、英厚生省、他の政府機関と協働で活動する。この組織の会員約60団体 にこの考え方の教育・訓練を行っている。標語は「Getting the right things to the right place, at the right time, in the right quantities, while minimizing waste and being flexible and open to change」=「正しいことを正しい場所に正しい時に正しい量を入手する、一方無駄を最小限に変化には拒絶反応を無に(オープンに)」

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